大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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月曜評論 眞悟の憂国

平成13年6月号

何かおかしくなった。おが屑の上に乗っているようだ。つまり土台が抜けたのだ。何しろ、内閣総理大臣が、衆議院本会議で「首相公選制実現に関して憲法改正を検討したい」と発言したわけだ。その直前に天皇は彼を総理に任命していた。ということは、彼は「立憲君主国」を体現する総理大臣になった。しかしながら、彼は首相「公」選を実現すると言い、自らが総理になった課程を「公」とは意識していないようだ。そして、マスコミ大衆もこの矛盾に気づいていない。ここはイスラエルではないというのに。

そこで五月中考えた。はたと思い当たった。つまり、我が国は「国民主権」の意味がわからない「民主主義国家」なのだ、と。総理大臣もマスコミ大衆も、「国民主権」とは、国民一人一人が「主権者」であることと理解しているらしい。つまり、窓の外を歩いているおっさんも主権者で、その数が一億二千万あると理解している。しかし、これではアナーキーではないか。どうして国が統合できる。

「国民主権」の「国民」とは、「歴史的共同体」の意味である。また、「主権」とは国際法上の対外的な概念である。この概念の発生は、ローマ法王の無制限な権力に対抗するために、「歴史的共同体」は外部から侵されることのない権利を持っていることを主張するためのものである。つまり、「歴史的共同体」としての「国民国家」は外部から干渉されないのだ。決して、道を歩いているあの「国民」も「主権」を保持し、直ちに外交交渉に当たっても良いし、国家のエネルギー政策を決定しても良いという意味ではない(現在、執念深いただのおばはんが外交交渉に当たっているようにみえるが)。

さて、「国民主権」が意識されたときの「国家」は、全て君主国であった。しかし、フランス革命では君主を殺してしまった。イギリスから独立したアメリカでは君主はなかった。そこで、君主に相当する元首をいかにして国家に頂くかを考えねばならなくなった。その結果でてきたのが「大統領制」である。悲しいかな、国に「伝統的権威」がないのでこれしかなかったのである。その時いかなる恐怖が彼等を襲ったかといえば、間違って大統領を選んでしまうことだ。彼または彼女が、金正日のような独裁専制者に転化することはないだろうか。この恐怖からお互いを猜疑心でチェックする「三権分立」の国家機構が発達した。「国民主権」ならば、大統領制つまり「首相公選制」がふさわしいという論が、如何に浅薄な大衆迎合的思考であるか。反対に、我が国が「国民主権」ならば、決して君主のないアメリカと同様ではないとの結論に至らねばならないのだ。

私は、「歴史的共同体」としての我が国のあり方、つまり「国体」または「国柄」つまり我が国の「国民主権」を深思すれば、立憲君主国と議院内閣制は歴史的にも論理的にも不可分と確信する。我が国から、共同体としての国民の「歴史性」を消去すれば「大統領制」つまり「首相公選制」しかないのは解る。臣小泉は、そこまで見切って言っているのか。総理として我が共同体の歴史的に神聖な中枢に触れた以上、明らかにせよ。