大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

疾風怒濤前夜 6

大学卒業時ゼミの仲間と右端が僕
大学卒業時ゼミの仲間と右端が僕

大學四年になって、みなは就職内定で既にヘルメットをかぶっていた奴も社会人面をして歩いていた。僕はまだ、大文字山に登っていた。

年が改まって、僕は司法試験を受けることにした。司法試験は、五月に短答式試験がありこれで十分の一くらいにふるい分けられ、残りが七月の論文式試験を受け、その合格者が十月の口頭試問に臨むという試験である。僕は、例の短期決戦方式を採用し試験準備を始めた。五月単答式に合格し僅差で論文式に落ちた。これがいけなかった。回りの者が二年ぐらいいかけて準備する試験に三ヶ月の集中勉強で合格ぎりぎりまでいったのだ。司法試験を軽く見た。

翌年は論文に合格するのはわけないと思って、翌年受けると単答式ではねられてしまった。つまり門前払いだ。以後三年連続単答式が通らない。五回目に門前払いを免れても論文が通らない。頭のなかが腐っているのではないかと思ったほどだ。ボディーブローを浴び続けたボクサーのように、ついに、膝ががくっとリングに落ちた。

ぼそぼそと修学院の道を歩いていると、かつてつき合った女が人の妻になりベンツに乗って通っていく・・・。

「昔おとこありけり、身をようなきものと思いなして、京にはあらじ・・・」(業平)

冬枯れの裏山の雑木林に仰向けになって空を見上げていると、目の前の細い枯れ草の上を小さな虫がはっている。日差しの暖かさに動けるのだろう。そのとき、この虫はえらいなあとしみじみ思った。そして、俺も虫だ、とつぶやいた。そうすると、かれたような枝にも堅い新芽が剣の切っ先のようにあり、春よりも生命を感じさせている。僕は京都を離れることにした。生業をもたねばならないと神戸市役所に就職することにした。

この時、国と地方の公務員試験を数個受け合格したが日本から独立してもやっていけそうな神戸に就職したのだ。司法試験は中断した。

このようなとき、一年に一度か二度、家にうかがって酒をよばれていた高校の恩師の山口先生が、「西村、見合いせえへんか」と言ってきてくれた。

聞くところによると、先生は、見合いなど人に勧めたことはないが、自分が大學で教えている生徒にすばらしい子がいる。なんか、この子とお前を会わせたくなった、ということだった。見合い場所は、北の新地の石橋と決まった。

当日、石橋に行ってみると先生が来ている。しかし、相手が来ていない。そのうち、中学時代からの悪友二人が「おー、眞悟おまえ見合いするらしいな」といって部屋に入ってきた。仕方がないので、山口先生とこいつらと四人で、飲み始めた。しかし、いくら待っても相手が来ない。酔いがまわった先生がよろよろとした足取りで階段を下りて、相手の女性の家に電話をかけに行く。戻ってきた先生が、何と言ったか詳しいことは忘れたが、相手のおなごさんは、ほかに用事があったとかで家に帰っていなかった。

ええかげんな話やなあ、と思ったが、結局、振られたのだ。見合いの席に押し掛けてきた二人も残念がって、四人で深夜まで飲んだ。

神戸に三年勤めて退職しその年三十四歳で司法試験に合格した。一年前に結婚して既に子もあった。

神戸を退職したときの夕食後の家での会話はこうだった。

「ご飯を食べている最中に言えば食い物が喉に通らないので、食べ終わったから言うが、俺は今日神戸を退職してきた。明日からは給料はない」

それから毎日、二百五十円をもらって喫茶店に行き気分転換するのが司法試験合格までの僕の毎日となった。貴重な二十代、俺は何をしていたのだろう。

いまやその時の情景は、「愛欲の経帷子に包まれて、重き自責の墓石の下」に納まっている。それをまた繰り返せといわれれば、拷問のようだ。しかし、このような時期のない俺の人生も考えられない。

僕はその人生の時期に愛着と切なさとかけがえのない思いを持つ。京都の修学院、神戸の六甲の山並み、しばらくはその風景を思い浮かべるだけでも、鼻の奥がつんとなった。

弁護士時代家族と
弁護士時代家族と

弁護士になって、四年後、僕はまたも放浪癖とでもいおうか、数ヶ月イギリスで暮らしたくなった。

その間の生活費を稼いで家にいれ昭和六十二年十二月に僕は日本をあとにした。

ロンドンとケンブリッジの中間のサフロン・ウオルデンという小さな田舎町に下宿して勉強をしている時、母に手紙を書いた。

「俺は、政治家になり、偉大になる」と。

母から、はるばる便りが来た。

「私は、幸せだ」と書いてあった。母は、世間よりも遅く産んだ子に、世間よりも多く心配をさせられていた。母には苦労をかけた。

しかし、この時点で、いかなる取りかかりをつかんで政治の道に入るか、そのホールドも未だ見えていなかった。

帰国後、三年間国選弁護を担当した被告人が、僕に言った。

「先生、こんな俺のことより、政治家になってください」

彼は、警察署の鉄格子のむこうから初めてあった僕に無実を訴え、僕は彼と共に三年間アリバイ証人探しをしていたのだ。

その彼は、ある日僕にこう言った。

「先生、俺は未決で二年間入ってます。もう俺がやったと言いますわ。それで裁判は直ぐ終わって、あと入るのは六ヶ月ぐらいですから。何のお礼もでけへんのに、先生に迷惑かけ続けてますもん」

「あほ、お前はやったんか、やってないのか」

「俺は、やってません」

「こら、お前個人のことやないんや。やってない奴が刑務所に行ったらいかんのや。やってないのを知ってながら、お前が刑務所に行くのを許せば、弁護士の資格はない。俺は弁護士のバッチを捨てる」

「そんなこと言うなら、先生、政治家になってください」

彼は証人探しの必要上、僕が保釈金をだして保釈させていたが、廃品回収をして生活していた。ある日その稼いだ金で、どうか俺に夕食をおごらせてくれと頼むので、僕は天王寺ガード下のジャンジャン横町で彼と食事をしたのだ。彼は、幼児のとき両親が離婚し、母親の顔を知らない。小学校一年からほとんど一人でカップヌードルを食べて育ち、中学は行かなかった。しかし、非常に頭のいい子で、その時二六歳だった。

守秘義務の範囲内に入るのでこれ以上言えないが、彼はこの数日後柏原の荒涼とした造成地で自殺した。

通夜は、僕と彼の親父だけでした。

彼の死亡証明書をもって裁判官に会うと、「あー、もう少し我慢してくれたら・・・」と絶句し残念がられた。裁判はほとんど結審に近かったが、彼のこの世に残した裁判記録は「被告人は無罪」ではなく、ただ「被告人死亡により公訴棄却」で終わったのである。その後その裁判官は、退官され四国遍路に出られた。

僕には、「そんなら先生、政治家になってください」という、彼の言葉が残った。

そして、一年後、ホールドは見えた。僕は、そのホールドをつかみ、登り始めた。

ここから僕の今も流れ続けている現代の物語になる。それ故、ここで僕の生い立ちの記を終えねばらない。

これから天が命を与えてくれるなら二十年突き進みたい。

現在日本の政治状況は、それを生み出す社会状況と共に変革の要がある。これを放置し現代のなかで名利を求めようとすることは、民族の生命力を枯渇させひいては国家と民族に対する裏切りに至る。しかし、その風潮は世を覆っている。

ここにおいて突き進むと言うことは、四百年前、関ヶ原で島津がやったことを覚悟するということだ。即ち少数で背中をみせず正面を向いて多数の体制のなかを突破することだ。

僕は同志と共にこれを為さんとする。天よ、照覧あれ。

(平成十二年二月十日、筆をおく)