大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

疾風怒濤前夜 5

大學に機動隊が入るとき、僕は例の僻地旅行の仲間と時計台の上に立って見物していた。

「こちらは、川端警察署長です。諸君達は今直ぐ解散しなさい。今直ぐ解散しなさい」これを指揮車のマイクが数度言うと、ピーという笛と共に装甲車が正門にぶち当たって門を開けた。機動隊が入ってきた。

「おう、来よった、来よった」と眺めていると、これからが見事だった。二百人ほどの機動隊は、ジュラルミンの盾を前に構えて整列した。次に号令と共に、盾に警棒を打ち付けてゆっくり前進してくる。ガシャ、ガシャ、ガシャと前進してくる隊列を見て僕は、ローマの重装歩兵とはこのようなものか、と感動した。

次にズン、ズンという鈍い音がした。見上げると空に火花が上がっている。横の奴が、「あ、花火や」と言った。「何が今頃花火やねん、あほか」と言っているうちに、目がしみて前が見えなくなった。催涙ガスが発射されたのだった。と同時に、ピーという笛を合図に、機動隊はワーという喚声と共に学生の集団に突撃してきた。

こうなれば、学生は蜘蛛の巣をつついたように逃げ始める。しかし、ある程度逃げたところで学生が投石を始める。ゴツ、ゴツ、ゴツと、石が盾に当たる音が響く。ピーとまた機動隊が前進。これを数度繰り返すと、もう入り乱れての追いかけっこになってくる。こうなれば機動隊も人の子、俺は違う、というのに殴りかかってくる。「あ、花火や」と横で喜んでいた奴が殴られていた。

ヘルメットをかぶっていた学生が、中国の紅衛兵のようにヘルメットを捨てて逃げている。僕はそいつの横を走っていたので。「こら、お前らずるいいやないか」とそいつの顔を見れば、東京の大学に行った高校の同級生だった。「おまえ、なんでここにおるねん」といっているうちに、機動隊の兄ちゃんが追っかけてきて離ればなれになった。

今から思えば、もし学生側にカルタゴのハンニバルのような指揮官がおれば、はじめは隊列を組むが直ぐカーとなってバラバラに追いかけっこをして見境が無くなる機動隊を第二次ポエニ戦役のカンネの会戦のように少数で多数を包囲殲滅できただろうと思う。三里塚闘争で機動隊に犠牲者が出たが、その時の状況も、警官が個々バラバラになってしまったところをやられている。

このころ、僕は前に言ったように、授業もなく試験もないと思っていたので、大阪で「やわら」という武術と居合い抜きを習っていた。やわらは、競技では柔道は柔道、空手は空手と別れている格闘技をそのまま混ぜた武道だ。現実には相手との距離が近ければ柔道になり離れれば空手になる。その中間距離で肘を使い関節をとる、したがってある意味では、戦国武士が現実の戦場で相手と戦う状況通りであり実践的だ。また同じ道場で習っていた居合い抜きは、親父の持っていた真剣を振り回して習い、介錯ぐらいはできるようになった。

つまり僕はこの時、何時も真剣を持って歩いていたのだ。もちろん刀の保管証も携帯していたので合法である。しかし、実は学生が角材を持っているのなら、俺はこれだと刀を携帯していたのだ。

角材は振り回すだけで手で受け止めても角材の方が折れるものであり、僕はそんなものを集団で持つのは勇気の無き印としか思えなかった。それで、僕は一旦抜けば切らねばならない真剣を持ったのだ。

この当時、京大の先輩で弁護士で民社党の衆議院議員をしている岡沢完治から、共に食事をしようという誘いを受けた。北浜の彼の事務所に行くと同じ京大法学部の学生が待っていた。結局岡沢と三人で食事をしたが、話題は大學紛争であった。

僕はもう一人が大學の雰囲気通りの秀才であったので、持論を述べた。特に俺は群れている学生のように、手で折れるような棒を持たない、俺は抜けば必ず切らねばならない刀ならその覚悟をして持つ、本当に刀を持って日本を変えることが必要なら持つ、学生の棒は結局日本を変える覚悟のない証拠だ、と言った。帰りしな、岡沢がタクシー呼ぶというので僕は断った。岡沢は少し憮然としていた。そして、僕は北浜から堺の自宅まで二十キロほど歩いて帰った。僕はその時、一銭も持っていなかったからだ。

後日、岡沢と顔を会わせると、その時四十六歳の陸軍士官学校五十八期の彼は、僕の手を握り、男惚れしたと言った。彼は四十九歳で死んだが、死後彼に娘がおりその長女と結婚することになろうとはその時知る由もなかった。

僕は、大學に入ってから、はじめは銀閣寺交差点の西側の北白川に下宿し、その後堺に帰り今度は銀閣寺疎水沿いの寮に入って住んでいた。京都を去る前は修学院離宮の南の修学院坪江町の下宿にいた。

さて、大學教養部の試験ボイコット決議の信義をまもり、僕だけ単位が無かったことは述べたが、実は僕は法律の勉強が手に着かなかったのだ。

法律の本を三行読んだだけでこれが日本文かと思うほど違和感があり眠くなる。かといって法学部以外に興味を見つけだしたと言うこともない。また、大學をでて就職することも考えてなかった。そこに高校以来の虚無感が増幅し、結局生活そのものがこのころよく言われたモラトリアムになっていたのだ。

大文字山にて
大文字山にて

やっていることといえば毎日大文字山にのぼること、毎日ということは雨が降っても台風が来ても登っていたということで、今思えばこれだけが青春だったのかと思うほどだ。

大文字山の上で、一人東京にいてもう病院のベットから離れられない父のことを思った。

いま父はこの世にいる。しかし、僕は京都にいる。父が死んでも僕はいるだろう。そうならば、父がこの世にいてもいなくても、いまのように僕は父と共にあるのだ。そして、父は死んだ。

しかし、僕は父の亡くなった家庭で通常息子が発憤してしっかりするというのと反対の方向に転がった。

政界再編のための父の負債のため東京の家を整理した。父の選挙区からの後継者は章三になった。よく大阪で言われるのは、有名人の奥さんが死ねば葬式は盛大で、本人が死ねば会葬者は少ない、ということだ。

子供の時から、僕の家では家族だけで昼食を食べることは珍しかった。いつも誰かが一緒に食べていた。僕は、食事を家で一緒に食べていた人は身内だと思っていた。しかし本人が死ねば、身内だと思っていた人も「会葬者」になり、縁が切れたように家に来なくなった。手を翻せば雨、手を覆せば雲、紛々たる軽薄なんぞ数えるをもちいん、だ。

佐藤春夫の詩に、三田の学生時代を歌ったものがある。正確には忘れたが「酒と、たばこと、また女」と。これと同じ学生時代でも僕のは、この明治の国家興隆期とちがい、もっとしょぼくれている。二十歳にして既に心朽ちたり、だ。青春がすばらしいとは誰にも言わせない。

このような学生生活を見て、母は何と思っていたのだろうか。遠藤周作の本に、嫁にもらう娘は、まず父親が酒を飲み浮気をして家庭騒動が起こった家の娘に限る、ということが書いてあった。そういう家で育った娘は、男というものは酒を飲んで夜が遅くなり浮気もするものだと体験で解っているので、亭主のことに理解があるから文化摩擦をしなくてもすむ、と遠藤周作はいうのだ。

この基準からすると母の育った家は正反対で、母は僕が酒を飲んで遅く帰ってきただけでも、息子が堕落したのではないかとびっくりしている気配があった。しかし、母は何も言わなかった。しかし、言うときは強烈だった。

ある日、二十一歳の頃、僕が道を歩いていたら後ろから外車が来てクラクションを鳴らした。僕はその車を避けた。すると車は行き過ぎずにとまり、なかから明らかにやくざのような三人の男がでてきた。僕の避け方が遅いというのだ。しばらく話していると、車のなかから化粧のきつい女が顔を出して、もうそんなのほっといてはよ行こや、と言う。それに応じて男達はえらそうにして引き上げようとする。僕は急に腹が立ってきて、まて、勝手に人の足を止めといて何じゃ、と一人を腰払いで倒し、もう一人の腕をつかんだ。すると他の一人が素早く逃げたと思えば車から木刀を出してきた。

僕が木刀に構えようとすると、起きあがった奴が僕に殴りかかってくる。かなり、ダメージを与えたと思うが僕もやられた。彼等は車に乗り逃げ始めた。僕は、こら待てと追いかけた。しかし、車は走り去った。その時は回りに見物人がたくさんいたので、僕もそそくさとその場を立ち去ろうとしたが、ふと顔に手をやると、何時もあったところに鼻がない。木刀に対処しているときに横から鼻を殴られ骨が折れたのだ。

僕は、耳鼻科をしていた姉に頼んで姉の同級生が医長をしている病院を紹介してもらい鼻の骨をいつもの位置に直してもらった。麻酔を使わなかったので、ぎしぎしと骨が軋む音が耳のなかに直接響いてきた。母は、病院から帰ってきた僕を見て、心配するどころか目をむいて怒り「やくざと喧嘩するような者は、ろくな死に方しかできない。はやく死ね」と言った。

なお、僕の鼻はその後もう一度折れている。今度は弁護士になってからのイギリス滞在中だ。

ある日、スペインのバルセロナのランバル通りを一人歩いていると。一人の兄ちゃんが僕の手荷物を後ろから来てかっぱらおうとした。そうはさせじと僕はそいつを殴り倒した。そいつは逃げていった。

僕は気をよくして歩いていると今度はそいつが仲間を連れて仕返しに来た。見ると一人はナイフを持っている。殴り合いになったが、ナイフを持っている奴が気になる。その隙に鼻にパンチを入れられたのだ。そこにスペインの警察が来て僕は、一緒にそいつらを捕まえた。しかし、僕もかなり相手を殴っていたせいか、留置所で長いこと待たされた。

留置所で隣にいた売春婦とおもわれる女性は心配そうな顔をして僕の鼻血をハンケチを出して拭いてくれた。そしてたばこをくれた。この二度目の骨折は、母は知らない。

話を戻す。