大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

疾風怒濤前夜 4

高三のときは、禅坊主の修行をした。おかげで受験勉強不十分で浪人する。
高三のときは、
禅坊主の修行をした。
おかげで受験勉強
不十分で浪人する。

高校三年の夏、和歌山日高郡由良にある興国寺に勉強しに行った。

堺の南宗寺にいた目黒絶海師が興国寺の住職をしていたからだ。臨済宗の寺だった。

開山は法燈国師という方で、みそを中国から日本に伝えた方だ。この寺には、戦国期に織田信長に追放された足利義昭が一時身を潜めている。法燈国師のおかげで未だに湯浅は、みそと醤油の産地である。ここで僕は、勉強するのは二日くらいでやめ、あとは座禅に熱中した。

果てはこのまま坊主になろうかとも思った。夏休み七月と八月はあっという間に過ぎたが僕は帰らなかった。九月に入っても坊主のまねごとをして二学期の途中から学校に行った。このころは一応医学部受験を目指していたのに、稼ぎ時の夏休みに僕は座禅と坊主の生活に熱中してしまったのである。おかげで今でも般若眞経や他のお経を唱えることができる。

この寺で、座禅の他に酒を飲む味を覚えた。たばこは東京オリンピックにちなんだ「とうきょう」という銘柄を吸っていた。

坊主の生活は佳いものだった。今でもあの三ヶ月は懐かしい。毎日分厚い古く節でごつごつした床を雑巾で拭き座禅だけをしていたのだ。今の興国寺は僕のいたころの足利義昭が身を寄せた時とかわらない頑丈な伽藍ではなく、総て建て替えられてしまった。座禅堂の上にある法燈国師の像だけが変わらないだけだ。

実は、僕の心の中には徐々に空虚感というか虚無感のようなものがべっとりと付き始めていた。それは、中学から高校になるにつれてその層が厚くなってきていた。

高校一年の秋、忘れ得ぬ人を見た。出会ったのではなく見たのだ。学園祭の準備で遅くなった日の夜、頭のなかにまだ劇場の和音が鳴り響いているような状態で三国ヶ丘駅から仁徳天皇陵の堀と森沿いに歩いていると、一人の初老の男がみすぼらしい身なりで堀の縁に立って森に向かって一心にバイオリンを弾いていた。堀の横にはリヤカーが置いてあってこれが彼の住居であった。その一瞬の彼の背中は今も消えることなく残っている。

翌早朝、僕が登校のためそこを通ると、リヤカーのなかで彼は、ギターを弾いていた。そして、夕方またそこを通ると、もはやリヤカーも彼の姿もなかった。以後、バイオリンを弾く彼に出会っていない。戦後から、まだ二〇年しか経っていないその時、既に初老の彼がバイオリンを持っていかなる人生の果てに放浪の生活に至ったのであろうか。焦点を合わせられない世界を見つめたような思いがする。

僕は無為の生活にあこがれていた。無為、虚空。寒山拾得のように。

「寒山子とこしえにかくの如く、一人自ずから侍して生死あらず」。旧約聖書伝道の書、「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労する総ての労苦は、その身に何の益があるか。世は去り、世は来る。しかし地は永遠に変わらない。日はいで、日は没し、その出たところに急ぎ行く。・・・」

他の一方で僕は、「化天は夢か」と歌った織田信長が好きだった。なぜ、自分はこの戦国や幕末に生まれなかったのだろうかと思った。人生は闘争であり自分自身との戦いであり、決して負けてはならない、その名を青史に留めると目をつり上げている自分を見ている自分。空の空一切は空である・・・。人みな一度死するあり、あるものは鴻毛より軽く、あるものは泰山より重し。しかし、そのいずれであろうとも、死する身に何の益があるか・・・。

学校では、僕はきつい目をしていた。後日友人の一人は、すれ違えばかみつくようであったと形容した。

そのころ、クラスで匿名で各人の人物評をすることになった。僕の手元に来たふたつの紙には誰のものなのか、つぎのように書いてあった。「動物に例えれば、お前は虎だ」「お前は自分の言動と、内心が一致していないと悩んでいるのではないか。その点、お前はかわいい奴だ」

この後者の人物評には僕は脱帽した。僕はまだ、虚無であるとしても、虚無であるが故に生き抜くことができるという、人間以外の総ての生物が無心に為していることを納得すことができなかったのだ。その意味で僕はまだ地球上の虫や楓や猫や犬と友人ではなかった。

大学から司法試験まで医学部受験のはずが、実際に入ったのは一年の浪人の末の法学部だった。しかし、このころ僕はまだ「司法試験というもののあんなる」を知らなかった。今から考えると、司法試験というものを知らずに法学部に行くとは珍しいのではないかと思う。

このころ僕は、新しい環境に入れば、目が慣れるまでじっと周囲を観察するようになっていた。特に浪人中に羽田事件で大手門高校出身の山崎君が死亡しており、ベトナム戦争反対を柱とする学生運動が世界的に広がりをみせていた時期だったから、特にそのようにしたのである。案の定、初めてのクラスではさっそく入学前から民青運動をしている生徒を世話役として、マルクス「資本論」の購入申込書の署名を求められた。集団で購入すればやすくなると言うのだ。かなりの者が署名していた。インテリの資格はマルクスの理解にありという雰囲気に、新入生は一挙にはいる時代だった。京大事件以来の自由の都・反戦の学府京都大学という歓迎演説が盛んだった。クラス会で日比谷高校出身者が立ち上がって、僕は東大を嫌い自由の都京都に来ましたといえば、皆はやんやと拍手していた。

僕は、六ヶ月だけだったが山岳部に入部した。退部したのは、足首が捻挫で動かなくなったからというのが表向きの理由だった。ほんとの理由は、虚無症がべったり張り付いてみんなで山屋をするより一人になりたかったからだ。

しかし、足首の捻挫は本当だ。いまでも片方は曲がりにくい。岩登りはできなかったことは確かだ。

なぜ、捻挫したのか。みんなには、岩登りで落ちて捻挫したといっていたが、本当は酒を飲んで塀から飛び降りたからだ。下へ素直に飛べばいいのに、僕は塀の上からスキーのジャンプのように虚空へ飛んだのだ。このようなわけで、僕は新入生のしゃべくりのサークルにも入らず、一人でいた。

このころは、人は群れるというとおり、学生はいろいろなサークルに入り、世界的な流行になった学生運動の臭いを嗅ごうとしていたのだ。クラス会が開かれれば、各々の属するサークルから論客が立って自説を話しまくりクラスをそのセクトで統一しようとしていた。文化大革命は中国で猖獗をきわめ、朝日を中心とする日本のマスコミも賞賛の報道をしていた。彼等の話は、セクト用語が多く難解だった。

次は、ある時の会話。

「国家権力は、人民を抑圧する手段として公安警察を放ち、その意図を鮮明にした。大學においては試験制度を設け学生を管理している。このブルジョア的意図を粉砕し虐げられた人民を解放しなければならない」

僕が次に発言した。

「俺は、このごろ何時も京都の町を歩き回っている。昨日の晩は長屋を歩いた。みな家族と夕食をとっていた。これはおいしいから食べやという母親の声や親父のおいしいという声、子供の笑い声が聞こえてきた。平和で幸せそうやった。このどこが抑圧されとんねん。お前ら大學のなかだけでしか通用せえへんことを言うとるとしか思われへんで、お前は、車で大學に通い昨日はええ女の子と嬉しそうに歩いとったくせに、何が抑圧されとるじゃ」

当時はまだ車で学校に通うなど異例の贅沢だった。特に苦学生の多い京大では目立ったのだ。その頃、山岳部でも僕が入った寮でも、質素に生活する学生がほとんどだった。ともあれ僕の発言は、何時もこういうスタイルだったので、「時局に目覚めた優秀な」学友達はあまり僕を説得にこなくなった。僕は、「あいつら俺をあほやと思とるやろな」と感じてきた。彼等の論理がうるさく周囲を覆い教官にも同調者がいる学内においては、しまいにどちらがあほか自信が無くなってくるものなんだ。

しかし、僕の言うことをじっときいてくれていた者がいてくれたのが解った。ある日二人が僕に話しかけてきた。世界の僻地旅行を計画したいが仲間を捜していた、君と組んで行きたいと。結局僻地旅行は実現しなかったが、彼等とは今も友情が続いている。

学期末に試験があるのは普通だが、教養部の学生は試験ボイコットの方向に動き、僕のクラスも試験ボイコットを決めた。僕はこれ幸いと試験準備を中断し大学に行かず京都を離れていた。しかし、この間レポート提出で試験に替えるという大学側の方針転換で僕のクラスは、例の抑圧された論客達も含めみなレポートを提出して単位を取得していたのだ。僕だけが、レポートも提出せず試験ボイコットをしていたことになる。単位ゼロだ。こんなあほらしいことはない。正直者が馬鹿を見るとはこのことだ。

後日のことになるが、資本主義の抑圧体制を主張し、あれだけ大學の建物を利用しつくし毀損して恥じなかった「優秀な学生」は、ほとんど四年間で卒業し、いわゆる大企業に就職していった。大學入学から始まったいわゆる学園紛争は、東京から京都に波及した。観察していると、これは共産党民青の絶好の稼ぎ場だった。

大學には、教員に民青がいて集会を取り仕切っている。学生の司会者が発言を求めればすっと手をあげ、額にパラッとたれた髪をさらりと手で払いながら進み出てご高説を垂れ、集会を誘導していくのが教養部の憲法の教授で、以下民青・隠れ民青がマイクをたらい回しにする。他方、新左翼と称する諸セクトは名前も覚えられない。そして、マイクで何を言っているのか分からない。

ある朝、僕は農学部の門の横の石に座って新聞を読んでいた。すると一人のまじめそうな学生が、僕に「この大事なときに何を新聞をのんびり読んでるんですか」と抗議してきた。

僕はびっくりした。こいつの頭は、授業のない大學にいる空白に各セクトからのマイクが入り込み完全に余裕が無くなっているんだと思った。そして、その顔を見ながらしみじみ思ったことは、なんで日本人の社会にはこのような反応をする奴が出てくるのだろうということだった。

戦時中の話として聞いたが、つまらんおっさんが、夜近所を見回って、楽しく歌を歌ったり笑い声がする家の塀越しに「こら、この非常時になにを遊んどるのか」と狐がついたように怒鳴っていたという。それと同じ精神状態にこいつは入っていると思った。そいつは、誰に教えられたわけでもないのに、この伝統に忠実にはまっていたのだ。