大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

疾風怒濤前夜 3

さて、時代の中での僕の両親と叔父のことを回想した。僕は、この明治生まれの両親の中に生まれ育ってきたのだった。

このように文章を作りながら思いを巡らすと、懐かしい小さな何の意味もないような情景が星雲のように次から次に浮かんでくる。しかし、文章の中にそれらを盛り込むことはできない。捨象されたこの情景にこの世に生まれて育ってきた総ての人に共通する普遍的な懐かしさの思いが溶けているのであろう。それが分かるから、親は子の記憶ができない時期であるのを知りながらも、絶え間なく笑顔と肌のぬくもりを伝え、その子を背負って草原を散歩するのだろう。その時期、肌から溶け入った暖かさは、文章にはできないが生涯失われることはない。

僕は、ここで文章つまり文字というものを使う伝達を、我が日本の先祖も、遙か離れたヨーロッパのケルト(ガリア、ゲルマン)人も長い間回避してきた理由が解るような気がするのである。紙に書かれた文字によって知らない人にも伝えることができるかわりに、文字にできない奥深いものの伝承ができない。

顔と顔を見合い、音のリズムで顔の表情で相手に伝える伝承が、母と子のコミニュケーションの方法を原型として人間の心により多くの実りあるものを伝えうるのではないか。

ケルトは、精神は伝承でしか伝えようとしなかった。それを文字にすることを拒否した。我が国も、文字をなかなか受容せず文字に古事記を書くまで音と表情による伝承を重んじたのである。

こうみるならば、文字が一番古く発達した漢民族において、叙情詩が発達せず、未だに文章化の関心が政治表現にあること、またその言語が断定的な政治的スローガンには適するが人情の機微を伝えるに不向きなのは、口による伝承の伝統が漢民族において一番古く忘れられたゆえではないかと思われるのである。

遙かに脱線したので、僕の青年期の前史に戻る。

現在は、子供がピアノを習うとかバイオリンを習うとかは普通のことだが、僕は、母の系統が音楽であったにもかかわらず、およそ音楽に親しまずにきた。

理由は二つある。まず、父が大衆に身を置く政治家として当時としては上流の雰囲気のするピアノなど家においてはならない、大衆の贅沢は敵であり貧乏は犯罪である、しかし政治家は赤貧に甘んじねばならない、質素こそ美徳であるという考えを持っていたこと。したがって、僕の家はテレビを購入するのも、他の家庭に テレビが行き渡ってからであった。

次の理由は、母が中途半端に音楽はできないという音楽に対する潔癖とでも言う考えを持っていたからである。音楽にのめり込んでそれを人生とするかそれともそれは人に任せて他の道を行くか。音楽をする以上は中途半端はいけない。と母は思っていたのだろう。したがって、この家庭では普通の家庭以上に音楽を習うことはできない。父が家族には上流趣味と見えるものを回避させる政治家で母がこのような潔癖な考えだから。

しかし、ここでもまた思う。戦後にピアノが上流的で自分の政治生活の路線と違うと感じるなら、戦前に既に明治以来バター臭い西欧音楽の家庭に生まれ外国教師と交流し演奏会もしていて、もんぺの時代にも洋服で通していた母となぜ父が結婚したのだろうか。縁は解らない。

ともかく僕はこの間で生まれたのだ。というわけで、中学以後の僕の関心は、スポーツをして体を鍛えること。山に登ること。自転車に乗って泉州・河内・大和を放浪することであった。

特に僕の好きなところは「上の太子」であった。ここは三輪山から真東に二上山を越えたところにある「王家の谷」だ。推古天皇、聖徳太子、小野妹子の墓をはじめ掘れば古墳がでるところだ。明日香から真東にある二上山の二つのこぶの間から彼岸には太陽が昇る。したがって、昔の来迎図には二つのこぶの山波が描かれているものがある。二上山がイメージにあるのだ。

その山の向こうを目指して明日香から葬送の列が進んだ。柿本人麿の柿本神社はこの古代の真東に向かう葬送の道沿いにある。大津皇子の墓は、二上山の男岳の上にある。皇子の姉が「うつみの人にある吾や、明日よりは二上山を色背と吾が見む」と歌った。この二上山を越える竹ノ内街道という古道は僕の一番好きな場所であった。今は無惨にかわってしまっているが、僕の見た竹ノ内街道は、古道であった。万葉集が僕のイメージを駆り立てていた。

雪の金剛山にて
雪の金剛山にて

山は、金剛山が僕の訓練場であった。楠正成と河内音頭の山である。戦前、父もこの山を愛した。この金剛山には今人々は千早からしか登らなくなっているが、僕らの頃はいろいろな登り口があった。

朝暗いうちに紀見峠につき柱本から山系に取り付く、行者杉をへて山頂にいたり水越峠に降りて葛城山を登る。そして御所に降りてきた頃にはもう夕方だった。

また、幕末に五条代官所に討ち入った土佐の那須信吾以下の天誅組が堺から走り抜けた伏見峠は今はもう踏み分け道も無くなって忘れ去られようとしている。

軟派と硬派という分け方をすれば、僕は硬派の典型であったので、いわゆる色気付く時期であったが、女色を断つという宮本武蔵の修行が男の道だと感じていた。したがって、女子とはあまり口をきかなかったと思う。しかし、教室に制服を脱ぎ捨てて運動着に着替えくたくたになって暗くなった教室に戻ると、誰かが僕の制服をきれいにたたんでくれていた。どこのおなごさんが、このような僕にこんな優しいことをしてくれるのだろうと頭のなかで虫がはい回った。

このころ、僕は彫刻に熱中したことがあり、自分の顔を彫った。学校に残したまま卒業したが、今でも思いで多い作品である。モジリアニの彫刻特にブロンズの女の顔に強い印象を受けた。アフリカのプリミティブな彫刻の影響を受けた作品だった。

ロダンの遺言をその頃読んだが、「フィビアスの前にミケランジェロの前に跪け」と書いてあった。しかし僕は、ミケランジェロに二百年ほど先立つ鎌倉時代の運慶・快慶をはじめとする日本の彫刻をロダンが見ておれば、彼は鎌倉に跪けと言ったであろうと思った。それを見れなかったロダンは可哀想だ。また、運慶快慶もギリシャ・ローマを見れなかったのが可哀想だ。

というわけで、僕は一時期真剣に彫刻家になろうと思っていたのだ。

そのころ母が持って帰ってきた写真に東大寺戒壇院の広目天象の顔の白黒写真があった。この広目天は僕の一番好きな彫刻である。この抑制された表現の持つ重厚さは世界的に見て追随するものを見つけがたい。この写真は高校・大学と僕の部屋にかけ続けた。今も座敷に置いてある。

学校の勉強は、はじめあまりしなかったが突然やり始めるという短期征服型だった。英語も数学も有機化学もこうした。

英語は、教科書とは関係なくサマセット・モームの「人間の絆」を全部読んだ。またテニスンの「イーノックアーデン」も暗記した。英語の世界が解ったように思った。数学も高三には、先生が出した問題を僕だけが解いたこともあった。しかし、短期だからその後総て忘れてしまった。