大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

疾風怒濤前夜 2

僕の母は、明治四二年に東京神田三崎町に生まれた。

旧称東儀秀子という。母の家は、四天王寺の雅楽を伝える家であったが、維新の時に宮中とともに東京に移った。

母の祖父は、子供(僕の祖父)に雅楽を強制せず洋楽に進むことを許した。その為宮中からの家禄に頼っていれば志が鈍るとして家禄を辞退した。祖父は、苦学して東京音楽学校でバイオリンを学び同級生と結婚した。おそらく日本での学生結婚第一号だろう。祖母も尾張から父を説得して東京に飛び出し音楽学校に学んでいた。残っている写真をみても祖母はきれいだ。卒業後音楽学校でバイオリンを教えていた祖父の家に遊びに来た学生が、祖母を妹と勘違いして、嫁にいただきたいと、祖父に頼んできたという話を母がしていた。

その頃西洋音楽を学ぶものは、総て外国人の教師について学んだ。したがって祖母は、洋服も縫うことができタンシチューも作ることができた。したがって僕の母のタンシチューも美味い。

母と
母と

母は、ドイツ人にピアノを学んだ。父と母は、ベートーベンのクロイテェルソナタをピアノとバイオリンで演奏した。母は、評論家の俵孝太郎さんの妹のピアノの家庭教師をしたことがあったが、俵さんはその著書で「東儀秀子さんは、その当時和服やモンペだけの時代に洋服姿で颯爽と現れた」と書いている。

母は、その語るところによると娘時代には西洋人と論争してうち負かすのが得意だったらしい。その頃ドストエフスキーやロマン・ロランやトルストイをよく読んでいたようだ。亡くなった母の友達と食事をしていたとき、母とその友達の話題は、ドストエフスキーだった。その友達は、僕のことをミーチャみたいね、と言った。ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の主人公の一人ドミートリーに僕がにているというのだ。

さて、人生の不可思議と言うか、ご縁と言うか、この母と父が結婚して僕が生まれるのである。

一方は、明治の男の土着的な本質を余すところ無く伝えている少青年期に苦労に苦労を重ねて存在感を獲得してきた男。片一方は、何不自由無く育ち西洋的合理性を以て明治の男の思いこみを論破することを趣味としてきた娘である。

その間に生まれたものはたまったものではない。僕の父は、怒って電話を叩き折ったこともあるし、子供の頃家によく来ていた市会議員達が、僕の父に怒られて、人間があんなに恐ろしく怒ることができると初めて知ったとか、目が飛び出たとか、述懐した男である。僕自身も、自分が乱視になったのは、父にどつかれたからかも知れないと思っている。

僕は、その凶暴な父が、母がギット睨んで対峙したときガクガクとなってぶつぶつ言い、コーヒーコップをすねたように反対方向に投げつけてガスを抜かれる光景を数度目撃しているのである。しかし、僕は母から父の偉さを教えられた。その頃は東海道が東京大阪十時間もかかるときなので、国会中は父は一ヶ月も二ヶ月も帰宅しなかったからである。

このような母子家庭同然の中で、母は父のことを僕に語ってくれた。

「政治とは最も醜いものの中に足をつけながら理想の実現の為に一歩一歩努力する行為である。お父さんはそれをしているのだ」とか、毎日朝に正座をする父をみて僕が何をしているのかと聞くと、「神と話をしているのだ」とか、母は教えてくれた。

笑い話も母から聞いた。戦後直ぐ、父が電車に乗っていると戦勝国でも敗戦国でもない第三国人つまり朝鮮人が、数名乗ってきて「敗戦国民は座るな、立っておれ」と言って日本人を立たして自分らだけが座っていた。父はそれをみて直ちにその数名の朝鮮人に鉄拳を喰らわせ排除した。次の駅につくと彼等はほうほうの体でこともあろうに敗戦国の警察官に父にどつかれたと訴え出たので、父は衆議院議員でありながら、警察で取り調べを受けたという。

警察に出向いた母は、警官から「先生は喧嘩慣れしておられます。要領よく殴ってはりますわ」とほめられたという。また、父が車に乗って外を見ていると、一人の男を数名の男が取り押さえている。父は直ちに車を降りて数名で一人にかかっている男達を排除した。しかしそれはスリを取り押さえている私服警官で父は大目玉を食らったという。僕が家の中から通行人に棒を投げていて父に見つかりどつかれたのは丁度その頃のことなのだろう。

母の弟は、大正元年生まれで東儀正博という。中学生の頃代々木の空を飛行機が飛ぶのをみた。それが彼の一生を決定した。

母に言わせると音楽的才能はこの弟が一番であったらしいが、彼はパイロットになった。地上ではハーレイ・ダビットソンが乗り物であった。それは死ぬまで変わらなかった。

彼は、英国国王戴冠式取材のために神風号を操縦して世界初の日本英国間飛行記録を作った朝日新聞の飯沼飛行士や塚越機関士と同期だった。東儀正博は、陸軍航空隊には入り、満州で三点を周回する飛行実験で無着陸長距離飛行の世界記録を作った。中国戦線では、南郷中佐の墜落時の惜別の無電を空で受信している。

彼は、姉の為に上海から護身用のピストル、姉の夫のためにワルサーやモーゼルという世界の名拳銃を我が家に持ってきてくれた。

彼は、大東亜戦争中には年齢的理由から戦闘機には乗らず、爆撃機搭乗や山下奉文閣下などの要人輸送に携わった。

昭和二十年八月十五日、彼は燃料を満タンにして飛び上がりそれが切れるまで降りてこなかった。彼の同期は総てあるいはインド洋あるいは南シナ海の空で死んでいたのである。

占領軍は、日本人の飛行を禁止した。彼はあきらめずアメリカに渡りアメリカの飛行ライセンスを取得し、今度は朝日新聞に入って飛び続けた。

僕の家からワルサーやモーゼルの拳銃を持ち出しては海の上でそれを落とした。一つだけ残っていた護身用の小さいモーゼルは、警察の科学捜査研究所に提出した。それらは僕にとって父と叔父の形見だ。その形見を失って惜しい思いがする。

彼は、学生の飛行指導にも熱心であったと聞いている。戦後二十二年間彼は飛び続け、ついに昭和四十三年アンボン沖で海に突っ込み消息を絶った。オーストラリアまで飛行機を持っていく途上であった。

あの海域は俺の庭だ、と言って飛び立ったというが、低気圧を避けるために迂回を強いられ日没で陸を見失ったと言われているが、真実は分からない。彼もやっと仲間と同じように空で死んだことは確かだ。

僕は、小学生の頃、この叔父に飛行機に乗せてもらったことがある。わざと機体を上下さすので直ぐのびてしまった。この叔父と地上を歩いたり車で移動すると、針路を変更するのを極端に嫌った。細い道で車が交差する場合など窓を開けて「こらはやくいけ」とぐずぐずする対向車を怒鳴っていた。相手はひげを生やした目の鋭い中年男におそれを為したのか小さくなっていたのを思い出す。また電信柱などが曲がっているのも気になって仕方がなかったようだ。叔父によると曲がっているのが気にならない奴は、なんの目印もない上空で水平になったつもりで斜めになっているらしい。

子供の頃、双発の速い飛行機の爆音が近づいて来たとき、僕は「あ東儀の叔父さんだ」と思って、屋根に登ったことがたびたびであった。叔父のあのすばらしい飛行機は、僕の立つ屋根の上に突っ込んできて翼を斜めにして去っていった。

その叔父が、インドネシアのアンボン沖で消息を絶ってから、叔父の飛行機によく取材で乗っていた作家の石川達三は、「東儀正博操縦士は、人生でただ一回の墜落を体験した。男は仕事で死ぬ」と「忘れ得ぬ人々」というエッセイを締めくくった。

母は、数ヶ月後、僕の前で初めて泣いた。
「マーチャンは、俺に棺桶はいらない、数億円の飛行機が俺の棺桶だ、といっていた。どんな思いで突っ込んだのか」と。

墜落の一年ほど前、電話で叔父が「お母さんを大事にせいよ」と言ったのが今も耳に残っている。