大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

中学・高校時代

中学時代京都遠足で真中が私
中学時代京都遠足で真中が私

中学・高校の六年間、はじめはあまり勉強をしなかったが終わり頃にはよくしたように思う。僕は、中学高校一貫教育をする大阪学芸大学付属中学校に入学した。中学で受験があって入学するのだが、榎小学校から僕ともう一人が受験して入学した。面接の時、母や章三から、「とっぴょうしも無いことを言うなよ」と心配された。

この学校は、阪和線の終点である天王寺駅と今の環状線寺田町駅の中間にあった。中学三年間を担任していただいたのは、福原公雄先生であった。どうもこの中学生活も小学校二年の転校の時と同じように始まったようだ。つまりその雰囲気になかなか慣れることができなかった。この中学校は付属小学校からそのまま中学に来た生徒と、僕たちのように中学から入学する生徒で構成されていたが、もちろん多数は小学校からの持ち上がり組だった。

付属小学校は、学習院のような制服を着ていわゆるええしの子が通う学校との評判であった。当然、その評判の中で、生徒はええし面をしていた。

ある日体育の時間、僕は跳び箱の練習をする列に並んでいた。すると、僕の前に割って入った奴がいた。その生徒とすれば小学校から一緒の者と並んでいることが当然であって、その間に知らない僕がいることがいやだったのだろう。僕はそういうことは知らない。列の後ろが空いていたからそこについただけだ。しかし、小学校組は僕の前に入ってくるのを当然としている。僕は、口で何度も言ったが、それを無視する。とうとう僕は手を出してその者を排除し列から追い出した。その時彼は、秀才顔をして「暴力反対」といった。今までの僕の世界では、自分が理不尽なことをしていながら、「暴力反対」という者に遭遇したことはなかった。その時、「えらいところに来たなあ」と一種の文化ショックを受けたことを今でも覚えている。

そういうことで福原先生に大変お世話になった。今から思えば中学生活を曲がりなりに過ごせたのも福原先生のおかげだと思う。

中学生の楽しい思いではやはり、夏休みだ。僕たちは毎夏、瀬戸内海の家島にある奥村君の会社の採石場で過ごした。海で蛸を手づかみし、採石場の上から海に飛び込んで過ごした。

ある日、家島本当から向かいの島、まで泳ごうと言うことになった。岸からは近く見えたが五キロくらい泳いでやっとたどり着いた。さて、帰りだ。

帰りはとうとう潮に流され漁船に救助されて採石場に運ばれた。

この夏に持っていっていた本が吉川英治の「宮本武蔵」だ。この本は仲間の間で伝播し、物語の中の「お通さん」に惚れてしまって、「お通さん、お通さん」と言い続けるやつまで出てきた。この愛すべき男も今は中年の医者になっている。また、僕たちは泳げない奴を海に誘い出して沈めて泳げるようにするのを趣味にしていたが、恐怖のあまり泣く奴も出てくる。

一番無邪気に泣いた奴も、今は大新聞の社会部長をやっている。この男は中学時代から忘れっぽかった。二年の時の体育の時間、この男が女子生徒の前でぼーと立っていた。僕は後ろから近づき、突然彼のランニングパンツをつかんで下に引っ張った。如何にとろいヤツでも防御ぐらいはする、したがって大事には至らないというのが僕の読みだった。しかし、彼は防御というものを全く知らなかったので、パンツは見事足首まで降りてしまって女の子の前で急所がべろんと出てしまった。

これには僕も驚いた。彼は畜生畜生といいながらパンツを上げ、悔し涙を流して仕返しするといった。以後数年間、僕は彼が後ろに回らないかと警戒していたが、彼は直ぐ仕返しを忘れてしまっていたのだ。今となっては全く記憶に無いという。これでよく部長が務まるなあと思う。

一年の遠泳の時、前に泳いでいる三年生が溺れたので助けた。この三年は僕にしがみついて助かったのに目をつぶって必死だったせいか、誰に助けられたか覚えていない。この先輩も、大会社の部長だ。

修学旅行でも門司駅にて
修学旅行でも門司駅にて

中学時代の思いでの本は、「宮本武蔵」と三年の時読んだロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」だ。
「ジャン・クリストフ」の冒頭、「いずれの国の人であれ、悩みそして戦い、いずれ勝つであろう自由な魂に捧げる」という言葉を今でも繰り返し、勇気が沸いてくるときがある。また、ライン川を見下ろす生家の床で、幼いクリストフが蜘蛛を見ている描写があるが、蜘蛛の前にある床の裂け目は蜘蛛にとってもクリストフにとっても大きく裂けた絶壁に見えるところなど、僕の幼い頃の昆虫観察と同じだった。そして、青年になって故郷に戻ったクリストフが見た生家の情景は、僕が後年に見た上野芝の家の情景と重なった。生はいくつもの死と、いくつもの復活の連続である。

最後にクリストフは、赤子を肩にのせて川をわたる。対岸に着く頃になると、赤子は耐え難く重くなった。聖クリストフが赤子に聞いた。貴方は誰ですか。赤子は答えた。私は生まれいづるその日なのだと。そして、この長編は終わっていた。

高校時代
高校時代

中学の時は体を動かすことに生き甲斐を感じていた。成績は中位でよくなかった。

僕が勉強を始めたのは高校生になってからだ。

高校一年の時の冬、スキー合宿があった。ウイスキーを持ってきている奴がいたので僕はそれを飲んだ。それをきっかけに他のものも飲みだした。僕は寝ていたが一人酔っぱらって教師に見つかり、なおもええやんええやんといって収拾つかなくなった馬鹿が出てしまった。深夜、僕たちは起こされて説教を聞く羽目になる。しかし、説教を聞きながらいびきを立てるものが続出してきてそれも効果がない。結局、明くる日一日宿舎で反省文を書いて謹慎ということになった。

僕は反省文に何を書いたか全く覚えていない。しかし、最近恩師からこう言われた。
「西村、あの時おまえ何書いたか覚えとるか」
「いや全く覚えてません」
「お前のだけは忘れへん。お前はたった一行、やっぱり酒はうまい、と書いてただけや」

高校時代
高校時代

夏の頃、今度は学校で宴会を開き、勝手に校庭で月明かりにナメクジのようになって転々と寝た仲間が出た。僕は校庭では寝なかったが、明くる日視聴覚教室に山崎先生から集まれと命令を受けた。

集めてから先生は、「お前らは、あほか」と言った。
「酒は、俺も好きや。しかし教師の分かるように飲むな。教師に分かったらおこらなしゃないやないか」

これには我々は参って、以後酒は飲まなくなった。

山崎先生は、海兵出身で三回ほど乗ってる船が沈められて海で泳いだ経験がある。先生の時間は地理であったが、小樽のところになると、「小樽の町は、俺達が守ったんだ。俺達は、海に並び槍ふすまを敷いているから、敵さんは、海から町に爆撃できない。また、背後の山の上から入ってきて爆弾を落としても市街地を通り越して爆弾は海に落ちる。俺達は小樽を守ったんだ」と言うような話になる。

また、ある時間の話。
「終戦の時、日本海におったが、船の中でどうするという話になった。インドネシア海域あたりで海賊になろうと言う話も出たが艦長が妻子のある兵隊もおるからと舞鶴につけて即刻解散を命じた。その入港前、俺たちは露助の方向に機関砲をありったけ撃った。」

先生の話で何が記憶に残るかというと、このような話なのだ。

卒業してから、先生と酒を飲んでいると、実は小樽に好きな人がいたらしい。幼年学校出身の英語の山口先生の語るところによると、その人は亡くなり小樽に墓があるという。山崎先生は戦後トラックの運転手をして生計を立てるが、結婚するに際し、奥さんと共に小樽の墓参りをしたという。

このほか、海軍兵学校出身の重松先生は、英語を教える時間に、零戦の旋回性能と空戦のやり方、棒倒しの戦術等の話を延々としていた。先生は棒倒しのとき殴られて目が悪かった。山口先生も英語担当だが、特攻出撃した先輩の「仇をとりたい」と教室の壁を睨む。

付属は、先生に恵まれた学校だった。この学校で学べたことは幸せだ。しかし、山崎先生も福原先生も重松先生も、亡くなられて今はおられない。山口先生は退職された。

と言うことは、このような授業をしてくれる先生方がおられる学校は日本にはもう無くなったということだ。

高校時代、教室が汚いので一夜にして派手な色に塗り替えるとか、学園祭を成功させるために、屋上にドラム缶をあげそこに並木をさして運動場まで垂れ幕を垂らしたりしたが、職員室では問題になったらしい。その時、福原先生や海兵、幼年学校出身の先生が何時もかばってくれたようだ。

そのとき、僕らの願いは、一度夜密かに屋上に自動車を運び上げようやというものであったが、あまりにも大がかりになるので実現しなかった。今でもこれが心残りだ。

学校には、倉庫にいろいろな道具があって、借用願いを提出して学校から借りるのだが、福原先生は、「西村に貸すときは何するか聞け、あいつは何するかわからへんで」と新入りの先生に注意したらしい。

ともあれ高校時代最後半つまり三年の二学期以降は、人並みに勉強した。しかし、妙な潔癖性が出てきて勉強しなかった科目で点数を取るのは邪道だという考えで、勉強しなかった教科は、テストでは残りの十分だけ教室に出て名前だけを書いて出てくるというようなこともした。この延長で、大学を受験したのだが、化学のうち無機化学は答案を書かなくとも合格できるというような賭をすることになった。そして、無機化学は白紙で出した。結局当然ながら現役で受けた東京大学はすべり、一浪することになった。

そして浪人中に東大はやめやと考えた。高校の先生が、「東大東大というが、ノーベル賞もらう奴はみんな京大や」といっていたのを思い出したからだ。翌年京都大学の法学部に入った。実は、法学部進学は、高校三年の三学期に決めたのだ。それまでは、医学部に進もうと考えていた。それで、年が変わるまで医学部進学のための受験勉強をしていた。模擬試験も医学進学組で受けていた。

しかし、考えてみれば自分が注射されるのはかまわないが、人に注射するのはやはり苦手だ自信がないと思い至り、医学部はやめたのだ。