大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

昭和三十年頃…子供が見たこの時代

さて、僕はどういう時代に子供だったのだろうか。僕が見たこの時代を語っておこう。

まず、上野芝時代、照明が白色電球から蛍光灯に替わった時の夜の明るさを覚えている。停電がよくあった。夜もアメリカ軍の飛行機が低空で飛んでいた。重いプロペラの音に窓ガラスがビビと響くのを覚えている。

テレビは昭和三十五年以後に普通のものとなったのであり、まだ無い。ラジオからは、「尋ね人の時間」で、例えば「昭和十五年頃、満州○○地区にお住まいの何々さん、隣組だった○○さんが探しています」、というような放送が延々と流れていた。それと、子供番組に「笛吹童子」があった。ラジオにも民放はまだ無く、NHK第一と第二だけであった。

経済はまだ戦前の段階にまで回復していない。上野芝にも、遠くの海岸沿いの工場の始業と正午と終業を告げるサイレンがウー、ウーと聞こえてきていた。それは空襲警報と同じサイレンだった。現在ならば騒音で苦情が出て禁止になるが、その当時人々はそのサイレンの音で、人々が働いていてくれることを感じていた。我が家も含め、日本の多くの家庭の夕餉では、米を一粒も残してはならないと親が子に教えるのが普通であり、作ってくれたお百姓さんに感謝しなさいという教えも、普通の家庭で普通に言われていた時代だった。近所には防空壕をまだ残している家が多かった。

上野芝は、戦前からの住宅街だったので、大阪に進駐したアメリカ軍将校の住居に多くの家が接収されていた。僕たちが村田別荘と呼んでいた広い庭のある邸宅もアメリカ軍の将官が接収して住んでいた。その庭の森には蝉が多いので忍び込んで蝉をとる場所だった。

僕の家にもアメリカ軍将校が靴のまま入ってきて、兄を抱いている母の前で接収の札を掛けていった。しかし、その将校が転属になり札はそのままだったので、他の将校が接収済みと誤解し、現実の明け渡しを免れたと母が言っていた。

駅の近くには、今から思えばオンリーといわれたパンパン達が住んでいた。下級軍人は駅の近くにパンパンを住まわせ、基地からここに通っていたようだ。この人たちは子供心にも派手な色のスカートをはき、きれいな缶詰やチョコレートや珍しいお菓子を持っていた。僕は、この一人から、子犬が欲しいと頼まれ、捨てられた子犬を探してきて渡してやったことがある。その時、その女の人の部屋に入った。珍しいお菓子を出して優しくしてくれて十円玉をくれた。孤独だったのだろう。

浜寺に母に連れられて泳ぎに行ったことがあるが、松林で有名な浜寺公園は総てアメリカ軍のものであり駅から見える目の前にある浜に行けなかった。公園の周囲には金網が張り巡らされ僕は母に手を引かれて金網沿いに長いこと歩いて砂浜にやっと着いた。金網から見る公園は、芝生がしかれグリーンのペンキを塗ったアメリカ風の家が建ち、白いアメリカ人の子供たちが遊んでいた。日本とは思えなかった。お伽の世界のような別天地だった。

月見橋に向かう坂を二人のアメリカ人が乱暴に大声を上げながら自転車で下り降りていた。一人が日本人にぶつかって転倒し、ごろごろと丸太のように坂を転がっていた。アメリカ人の飼っていた猿が、日本人の母親に抱かれた赤子に飛びついた。アメリカ人はその場でピストルを抜いて猿を射殺した。

昭和二十五年四月に七名が戦犯としてアメリカ軍に処刑されたのが、千名を越える戦犯処刑の最後だった。その二ヶ月後、朝鮮戦争が起こりアメリカは日本占領政策を転換した。僕の記憶でも、ある時期を境に、アメリカ軍の姿が急に上野芝から消えていったという感じがある。それまでは、アメリカ軍は国会議事堂の中央のとんがり帽子のような塔のなかにあるホールを将校のダンスパーティー会場に使っていたのだ。

日本の総ての財産はアメリカのものだとみなしていたのだろう。今僕は、国会議事堂裏の衆議院会館の一室でこの文章を書いているが、僕のこの周囲の初めての記憶は、議事堂正門の左右に建てられていたかまぼこ型のアメリカ軍の数棟の兵舎だ。それにしても、我が家を接収に来た将校が転属になってよかったと思う。

昭和30年代前半、安保闘争までの時期には、今のように日本の戦争は悪だったと言うような風潮があったのか、と僕はいま記憶をたどっている。

僕は、日本は昔太平洋の西半分とインドまでのアジアに版図をのばし。日清・日露と戦えば常に勝っていた強い国だったと聞かされて、驚き誇らしかったのを覚えている。この時の映画で、「明治天皇と日露大戦争」また「敵中横断三百里」があり、僕は胸をわくわくさせながら近所の映画館で見た。

翌日さっそく図画の時間に画用紙いっぱいに雪の原野に炸裂する砲弾とそこを突破する日本騎兵の絵を描いたのを覚えている。山本先生のもとで、僕はのびのびと絵が描けたのだ。昭和32年、小学校3年の時だ。

戦争の記録映画も多く上映されていたと思う。そこには特攻隊をはじめ日本兵の勇戦奮闘の姿が映し出されていた。「電撃作戦11号」という日本海軍の記録映画が印象に残っている。零戦、戦艦大和は子供たちの自慢で、模型屋に行っては軍艦を造り池に浮かべた。

また、このころはマッカーサーの禁止したという「忠臣蔵」が毎正月に、東映・大映等で競って上演されるのが恒例になっていた。僕はほとんどの正月にそれを見たと思う。アチャコと伴淳の「二等兵物語」は、戦争に行った二等兵という庶民の哀感と正義感を物語の基調にしており、それから、「座頭市」シリーズや「昭和遊侠伝」また「兵隊やくざ」シリーズと昭和40年代まで続いて行くが、人間の描写も具体的で一つのフィルターをかぶせた不自然なものではなかった。

上野芝時代から、僕たちの遊びは、戦争ごっこ、チャンバラごっこが主流であり、僕は竹から弓を造るのが得意だった。このような流れの中で、五味川純平作「人間の条件」シリーズは、今から思えば自虐史観の先駆けのような映画だった。小学校から中学時代に掛けて上映されていたが、子供心に人間描写が浅薄だと感じた。

ドイツのレマルク著「愛するときと死するとき」という小説がある。中学生の時読んだ。その中に捕虜の射殺を命じられた兵隊のことが出てくる。先輩の兵隊は恐ろしくて迷う主人公に、眉間を狙い一発で殺してやれと告げる。何故なら、捕虜の苦痛を長引かせない為である。逡巡してねらいを外すことがどれだけ捕虜を苦しめることになるかを先輩が教えたのである。

しかし、「人間の条件」の主人公梶は、同じ場面で逡巡し捕虜の急所を外して銃剣を突き刺す。そして上官に殴られる。そして、映画は梶が良心を失わない勇気を持っているとアピールする。反対に捕虜刺殺を命じた軍隊自体の非人間性を強調する。

僕はここに、この映画の浅薄なるものを感じていた。

僕なら、「愛するときと死する時」の主人公と同じようにするだろうと思う。自分の良心をアピールする為に殴られるのは簡単だ。その自己満足の為に捕虜の苦痛が耐え難く長引くことを無視すればいいわけだから。しかし、生きる者と死ぬ者との間で、生きる方は果たして自分のことつまり自己満足だけに関心を集中していいのか。それが人間の真の具体的な姿なのか。生きる者は死に行く者のことを思うのがその場の勤めではないか。

僕は、聖書の中にある
「人前で祈るものは、既に偽善者である」

という教えに真実があると思う。

自分が良心を保って悩んでいるとアピールする者は既に偽善者である。「人間の条件」は、全体としての悪(つまり日本)の中に生まれた人間の良心的であろうとすることの難しさを主題にしているようだが、これは成功していない。全体としての悪とその中の良心的個人という設定は具体的な人間の世界では成り立たないからだ。

この「人間の条件」の設定を成り立たせるイデオロギーのモデルは、資本主義は全体としての悪であり、その中のプロレタリアは、よき未来を約束する良心であるという共産主義イデオロギーである。

ナチス強制収容所の記録、精神科医であり被収容者であったフランクルの「夜と霧」には、強制収容所という極限状態において、人間の価値・評価は、看守側と収容者側の区別無く二つに別れるという。看守にも収容者にも懸命に人間味を保つ人の群とそうでない獣になっていく群が識別されてくると書かれている。この著者は、よく言われるように強制収容所の看守側は悪でユダヤ人側は善だという図式は現実の収容所の中では真実ではないといっているのだ。

共産主義は、この人間存在の実相を隠蔽し、一つの側は総て悪で、他の一つは総て善としたフィクションを社会構造に強要した。その結果、ナチの強制収容所と同じ構造の社会を作り上げた。そして、収容所とは反対に看守側つまりソ連は総て善としたのだ。

反対に「人間の条件」の設定は、共産主義以前の社会を扱っているので、看守側つまり日本は悪で、その中に収容された主人公は善となる。単純というよりイデオロギーである。僕は、梶の捕虜に対する態度をみて、子供心に不自然さを感じ、なぜ感心する大人がいるのか分からなかった。

後年、レマルクの「愛するときと死するとき」という小説や「夜と霧」を読んで、その時感じた不自然さの裏付けを得た。

さて、脱線したが、日本映画の特色であった人物描写の奥ゆかしさは、僕の見るところ「人間の条件」を始まりとするイデオロギー的浅薄さの流れに捨象されていったように思えてならない。これが目立ってくるのが昭和四十年代後半であり、五十年代以後の自虐史観の先駆けとなる。