大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

十代…堺の町に出て

小学校二年の時、僕の一家は堺の仁徳天皇陵の近くの北丸保園という処に引っ越しした。その時は、長兄の重剛は自衛隊勤務のゆえどこかの任地で住んでおり、姉は結婚して一家を構えていたので、引っ越し先に行ったのは、父母と勇三、章三と僕であった。

小学校3年のころ
小学校3年のころ

堺という町は、中世の自治都市堺を発祥としている。この時、堺と大阪の間を流れる大和川はまだ無い。したがって堺港は天然の良港であった。

当時の大和川は、今の大阪市平野区あたりから北西方向に流れ大阪中心部で海に出ていて、堺の浜に砂を運び入れ港を埋めることはなかった。

堺の北側は、大阪城や難波の宮また四天王寺のある上町台地以外は低湿地帯で、現在の大阪市内の大半は大和川と淀川の定期的氾濫で水の下になったり上になったりしていた。

古代には大阪の上町台地以外は河内湖の湖底で、河内湖は生駒の山麓まで水に浸していた。それ故生駒山麓からは鯨やイルカの骨が発掘されるのだ。大阪は、中世まで陸地に自由に海が入り込んでいたのだ。その一番海側の陸地に住吉大社がありそこから南に住吉街道が海沿いにはしり堺の並松を経て紀州に至る。この街道は、堀で囲まれた中世堺の町を真ん中で串ざすように南北に走っていたのである。

その海と同じ高さにある昔の堺の町の東は丘になっていて摂津、河内、和泉の三国が見えるから三国ヶ丘という。

堺の地名もこの三国の堺だから堺となったということも聞いた。この三国ヶ丘から百舌鳥、上野芝、家原、津久野に至る丘陵の海に面したところには反正天皇、仁徳天皇、履中天皇の天皇陵をはじめとする古墳が連なっている。

僕が姉に抱かれて初めてつれていってもらったお宮は小学校の西にある津久野八幡さんで、この神社の西は崖になっている。

その崖のヘリに平らな石があり、源の義経がその石に座って平家との戦に乗り出す大阪湾の浪を眺めたと伝えられている。その崖の下は、八百年前は直ぐ海だったのだ。今の海は崖から4,5キロほど離れている。

大阪湾でヨットに乗りほぼ一日陸を眺めたことがあるが、海面とほぼ同じ高さの平地などあるかないか分からない。直ぐ見えるのは屏風のような北から生駒、信貴、二上山、葛城、金剛の山脈である。その手前に小高い丘がつながり御陵の森が見える。古代の海路にとって、明石海峡を越えれば見えてくる泉州の各御陵は、道しるべの役割を果たしていたことは確かである。

いささか脱線しているが、この旧堺から東の屏風の谷間、つまり二上山の麓を通って明日香に抜けるほぼ真東の道、これを竹ノ内街道という。この街道が僕の現在の家の前の道の原型である。即ち、僕の引っ越した家の前の道から自転車に乗って坂を下ればすぐ旧堺の堀を越えて旧市内を横断して大浜の海にでたのだ。反対に坂を登れば金田の村を抜け羽曳野の丘陵を抜け二上山に至る。また、旧市内から丘陵沿いに反正天皇陵を左手に仁徳天皇陵を右手にして南南東に向かう道は、高野街道という。これは紀州の高野山に至る道だ。僕の新しい家は、竹ノ内街道と高野街道の交差した処にある。

さて、僕はこのような地形と歴史を原型とする堺の市街地に引っ越した。昭和三十一年春のことだった。

引っ越しして僕は、喘息が出て湿疹もでた。上野芝のころ健康優良児の表彰状をもらったのが嘘のようだった。これは空気のせいだったのだろうか。

上野芝の頃は、自動車が向ヶ丘にあがってくるのはまれだった。それ故僕は、車の排気ガスの油のにおいが何とも珍しく、車の後を追いかけてその臭いを嗅いだ。しかし、市街地では僕の家は車が多く走る道路に面していた。排気の臭いが珍しいどころではない。それが僕の体調を変化させたのだろうか。

転校した榎小学校ではじめにしたことは、力比べ、つまり前からいる一番喧嘩の強いといわれる者との相撲だったと記憶している。僕は勝った。しかし、これが担任の先生はじめみんなから僕が雑な乱暴者と見られるきっかけになった。

後年、母が上野芝のとき庭で飼っていた鶏のことを例に出して、その時の僕のことを語ってくれた。数匹いる鶏の中に、新しい鶏を入れると古い鶏が共同して新参者をつつき回していじめた。転校した僕の様子は、この新しく入れた鶏を思い起こして痛々しかった、と母はいうのである。

僕はその時、自分がいじめられているとは思っていなかった。しかし、この時学んだことは、子供が純粋だとか、学校の教師が公平だとかいうことは嘘だということである。

純粋な人は純粋である。公平な人は公平である。しかし、子供だから、教師だから純粋であり公平だということはない。子供のごますりほど露骨なものはないし、教師のいじめほど悪質なものはない。

教室での授業中、何か物音がした。それは僕が出した騒音ということに担任に決めつけられた。担任が見ていないところで僕にちょっかいを出してくる奴がいた。僕が何おっと振り向くと担任が、西村立ってなさいと命令する。このような連続だった。

僕は、図工が好きで一生懸命造った。みんなの作品と共に張り出された僕の図画を指さして、西村のは汚いやろ、と担任が解説した。そして、きれいとほめる子と目と目を合わせて僕の前で笑っていた。僕は、小学校二年の子のごますりを見ていた。

気に入られるようにと僕にでも分かる仕草をする生徒には、担任は実に優しかった。ある日のテストで、僕は百点をとった。何時も百点を取った子が教室で担任にほめられているように、僕も名を呼ばれると期待した。けれども僕は無視された。しかし、不思議に僕は怒らず、担任を理不尽だとも思わなかった。また、いくら濡れ衣を一方的に着せられて僕だけが立たされても、また一生懸命造った図画が汚いと言われても、その背後に「悪意」があるとは思わなかった。間違うこともあるけど、やはり先生なんやと思っていた。

しかし、とうとうこいつは何という奴だ、このような者が許されるのかと思った情景を見た。それは僕が仲良くしていた子が、給食の時、パンの間にうどんを挟んで食べていたときだ。担任は、それを見て、子供を呼び捨てて、○○は汚いなあといった。その子は貧しい家の子だった。

その子の服も皆貧しかった。そのうえに担任は、食べ方まで汚いなあと言ったのだ。僕はその子の顔を見た。彼は笑いながら下を向いて食べていた。

「僕は汚いと言われるのに慣れているんです」と答えているようだった。

僕は本当に気の毒だと思った。可哀想だと思った。

今でも甦るが、僕は自分の生徒のその存在そのものを、その小さな魂を皆の前で汚いと言える精神が信じられなかった。そういうことは決して言ってはいけないことだと思っていた。僕の造った図画が汚いという、それは許せる。しかし、人間が汚いと言う精神は許せない。そのとき、明確にこの教師の全人格を否定した。

ある日、この担任の亭主が僕の父を尋ねてきたことを覚えている。後で母に聞くと、このご亭主は、うちの妻がお宅のお子さんの担任ですが、お宅のお子さんが乱暴なので厳しくしているだけで、決してえこひいきしているわけではないと、くどくど父に説明に来たようだった。父も母も黙ってそれを聞いていた。しかし、そのことで両親は僕に何も言わなかったし、僕も学校のことは家で何も言わなかった。僕は僕で、そのご亭主の来訪の意味を見抜いてそのご夫婦の精神の貧しさを感じた。

僕が、一息つけて今でも感謝しているのは、三年と四年に山本明子先生に担任してもらったことだ。先生が上野芝に住んでいることも僕が先生になついた要因だったかも知れない。この明るい先生に会ったことが僕の榎小学校の思い出を明るくしてくれた。

はじめに教室に入ってきた先生を見たとき僕は、「さざえさん」がきたと思った。

先生との時間は楽しいことばかりだった。もちろんよくしかられた。しかし、からっとした先生にしかられることも必要だと子供心に納得していた。この時山本先生は三十歳だった。

小学校を卒業して高校生になっていたと思うが、山本先生に会ったら、職員室で毎日西村は悪い子だと愚痴を聞かされてきたので、西村を担任することになった時、どれだけ悪いのかと思っていたら、こんな素直な活発な子はいないではないか、この子のどこが悪いのかと思ったと教えてくれた。僕はその時、担任の悪意によって無実の罪を何時もかぶせられて、実際にそれをした奴は何もいわない学級の中で、何も言い訳せず、不思議に頓着無く明るく過ごしていた小学校二年の自分の姿が愛おしくなった。

学校のことを離れて、記しておかねばならないのは、このころ僕が母に連れられてカトリックの教会に時々通っていたことだ。キリスト教という精神の世界、母はその中に一つの純粋な愛の世界を感じていたと思う。僕も子供なりに感じていた。

母は、上智大学の学長になったヘルマン・ホイベルス師の随筆などをよく読んでいた。このホイベルスさんは、関東大震災の直前横浜に上陸し、その時の桜木町駅のプラットホームを走る日本人女性の下駄の音を初めて聞く美しいハーモニーと感じて忘れられない方であった。またその直後起こった関東大震災では、日本は地震が多いと教えられていたのでなるほどこれが地震かと思っていたら、滞在年数の長い同僚の神父の顔色が蒼白になっていたので、やっとただごとではないと思った方であった。そしてその夜、黙々と続く避難民の礼儀正しさに、日本人に対する尊敬の念を抱いた方だった。

大正天皇のご大葬のおり、正装して宮城の前に立っていた方である。戦時中、学生と共に勤労奉仕に励んだ方である。

ホイベルスさんは、ドイツから日本にきて生涯故国に帰らなかった。師の母上は、異国の息子に、息子の好きな最後のお袋の味を届けようとした。死に臨んで母上は、息子の好きな料理を造りそれを箱に入れ日本に送った。もちろん船便しかない時代である。日本の息子に届いたその料理はかびが生えていたけれども死に行く母の気持ちを息子に伝えていた。

僕は、信仰に生きて単身日本に骨を埋めるのを当然と考え、その通り生き抜く聖職者の姿に、潔さと強さを感じた。信仰の力、愛の力を僕は尊いと思う。聖書は、高校生の時に手元に置いて読み始めた。

小学校四年の時から、学校で気がつき始めたことがある。それは教頭先生が、授業中も何時も校庭や校舎の隅にある紙屑をちりとりを持って拾い歩いていることだった。授業中に窓から校庭を覗いているとその教頭先生がうろうろ歩き回って紙屑を拾っている。僕は教頭先生は偉い人だと思っていたので、その先生がこずかいさんのような仕事をしているのが記憶に刻まれた。

この方は、竹野先生で、現在もご健在で僕に激励の手紙をくださる方である。三十年以上経って、僕は先生の紙屑拾いの意味が分かった。教育とはそういうものなのだろう。黙々と行動で実践していることをどこかで見ていた子が、そこから何かの刻印を得てそれが数十年経ってその子の中で育ち意味が分かる。人は、下座行を実践しなければならない。つまり、足下の紙屑ひとつ拾えないような人間は、駄目なんだということを僕に教えてくれた方が竹野教頭先生なのだ。

さて、市街地に来ても終日遊ぶことができた仁徳天皇陵や履中天皇陵の回りの堀そして原っぱ、また自転車で走って十五分でついた大浜の海、ここで僕は泳ぎ貝を拾い親父の食べるおつゆに僕の獲った貝が入るのが嬉しかったのだが、これらも消えてしまった。

天皇陵や倍塚の周囲の堀には、総てフェンスが張られた。僕たちの頃は、堀にはまったこともあるが、フェンスはなく自由に堀で遊べた。雨の日に網を持ってうろうろしていると、友達のお母さんに「がたるに池に引っ張り込まれるで」と注意されたあの堀も池も無くなった。

大浜の海は、昭和三十四年頃から埋め立てが始まり、沖十キロにわたって工場敷地が造られた。大阪湾は貝塚市の二色浜の一角を除いてほぼ砂浜が姿を消したのである。「泉州二色浜」と題する浮世絵を見たことがあるが、海に接する砂浜が円弧を描いてどこまでも続いていた。僕が幼い頃見た大阪湾そのものだった。

そして、僕の子供の頃にその景観は消えた。