大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

幼年時代

幼稚園のころ
幼稚園のころ

夜道を親に手を引かれて歩いていると、お月さんがどこまでもついてくるように見えた時代。

夜の家原の山に怖い化け物がいると信じていた時代。幼年時代。

その記憶をたぐる回想は、ぶかぶかの半ズボンをはいて、裸足にゴム靴で原っぱを駆けている当時の僕を今の自分が眺めているようだ。

そいつは、月見橋の田圃に入って太股まで泥につかりながらドジョウを捕っている、もりや池で、大きなフナがかかってびっくりしている、家原のとんとの火の粉から頭を抱えて逃げている、月見橋の欄干に座って遠くの花火を眺めている。

また、そいつは、家の前に勝手に関所を造って、断りもせず勝手に通っていく人に向かって水鉄砲を撃っている、それだけではなく今度は槍を造って投げ始めた、帰ってきた父親がそれを見つけ僕を殴るのが止まらなくなる、母親がびっくりして出てきて父親が殴り続けるのを止めようとする、父と母が僕を引っ張り合う、下を見れば僕の足が地面を離れている、その時の情けなさ。

そいつは、どういう訳か今度は一人、夜中に風呂の釜戸の横にいる。親に怒られて泣いている。僕の生まれる前からいるという捨て犬のエスが心配そうな目をして僕をのぞき込んでいる。今でもあの時のエスの心配そうな目を忘れない。僕は、犬が人間のことを心配して慰めようとするのを知っている。

男にはちんちんがあり、女にはない。僕は、どうなっているのかと思っていたら、近所の女の子がパンツを脱いで、僕の前でしゃがんだ。僕もしゃがんで、首を横にして覗いていた。そしたらその女の子のお母さんが出てきて追い払われた。

上野芝の丘の方から駅まで、下水管が引かれることになった。埋める菅が駅まで道の横に置かれていた。僕は、家の前からその下水管の中を匍匐前進して駅に到達した。ズボンの膝がお月さんのように破れていた。

幼稚園から上野芝の丘までの途中、津久野の村のはずれに小さな祠が建っている。その祠が津久野のガキの砦だ。彼等はそこにたむろして上野芝に帰るものたちを、この砦から時々攻撃する。僕は、この砦の守備範囲を突破するのに一苦労することもあった。

家の近くに磯田さんが住んでいた。年上の「ようボン」と「みいボン」の兄弟とよく遊んだ。ここのお父さんは、大きなポインター2匹を飼っていて時折猟銃を担いで出てきた。僕たちは何を撃つのかとその後をついて歩いた。

上野芝の周囲には雉もフクロウもいた。

今でも時々、自分としては自然なことが、回りと一致しないことがある。反対に回りから見れば、僕が突飛なことをすると見えるらしい。

その起源が幼稚園頃だろうか。

幼稚園に入って、先生から、分かった人は手を挙げてと言われた。

僕は分かったと思ったので手を挙げた。手は右左二つある。だから僕は自然に右左の両手を挙げた。

僕はずっと両手を分かったサインとして挙げていたのだが、先生は妙な顔をしていたのを思い出す。回りはみんな片手を挙げていたようだ。僕は今でも分からない。手を挙げろといえば手は二つあるから両手を挙げるのが自然ではないか。片手でいいなら右手を挙げとか左手を挙げとか指示があったときだ。

また、僕は指定されたイスに座ることは座るのだが、そのイスを自分で好きなところに移動させることができるに決まっていると思っていたようだ。

僕は、教室でイスごと好きなところに移動していたと母から聞いた。僕は覚えていない。覚えていないほど僕にとっては自然だったのだろう。

運動会の日、今でも母の顔が浮かんでくる。一斉に並んでよういドンと走り出す。前にはテープを先生が持ってゴールを示している。この時僕は、母の方に走っていった。僕にとってのゴールはそこだと思ったからだ。多くの顔の中に母の顔があった。僕はそこをめがけて走った。

母が笑って、ああ、ああというような顔で待っていた。僕はなぜ前に張ってあるロープに向けて走るのか、他の子のように分からなかったのだ。後年、母は、僕が勝手にイスを移動させるとか、よういドンで、一人だけ他の方向に走るとかで、この子は少しおかしいのではないかと悩んだと言っていた。

高校生の時、体育の先生が青筋たてて僕を叱った。僕は一瞬なんで怒っているのか分からなかった。

体育館での授業の終わり、深呼吸を指示された。戦前からの体育館は、1時間の授業で埃もうもうであった。僕は、深呼吸は肺を整えることと思っていたので、このような埃の中では深呼吸にならない、かえって有害だとおもって一人体育館の外へ出て深呼吸した。僕としては全く自然だった。

その僕を、先生は湯沸かし器のように怒った。自分の授業の秩序乱す反逆行為と映ったらしい。その時、僕は幼稚園以来の自分のサガを思い起こした。

家の向かいに、大阪府の教育長を務めた方の家があったと母から聞いた。三十代の頃、この方の思い出を綴った文章を読んだことがある。

そこには、向かいの家の二人の兄弟のうち小児麻痺の兄の方は痩せて歩くのが困難であったが、弟の方はまるまると太って活発に動き回っていた、と回想してあった。これが僕たち兄弟の姿だった。兄は障害があったので家の中での喧嘩では如何に悔しくても怒られるのは何時も僕だったが、家の外では兄弟はよく助け合ったと思う。

僕が、かなり大きくなってからも、母の鏡台の横に大きめのキューピーのセルロイドの人形が置かれていた。足は動かないが両手は胴体とゴムでつないであり動いた。このキューピーは、母が天王寺で買ってきた物だ。母が言うには、母と僕と兄で天王寺に行ったとき、僕だけ動いて迷子になった。母は、僕を捜して回りをくるくる見回したとき、あそこにいたと思ったという。それがこのまん丸のキューピー人形で、母は、あまりに似ているので買って帰ったのだ。

僕が四十近くなったとき、上野芝の近所に住んでいた九十歳になった斉藤のおばちゃんが、「しんごちゃんは、目がくりくりしてよく太っていたのに、麻疹で目にできものができてから細くなった」と教えてくれた。母がキューピーと僕を天王寺で間違えたのは、僕が麻疹になる前なのだろう。

このようにして、僕の童心の時期は、上野芝の自然のなかで過ぎていった。僕は昭和三十年、津久野小学校一年に入学し、二年のとき上野芝を去って堺の中心部に近い仁徳天皇陵近くの現住所に引っ越した。

一年の時は、同級生から「喧嘩、ついてや」と頼まれて、喧嘩についた。この「喧嘩、ついてや」というのは、自分が他の者から喧嘩を仕掛けられそうになったら、自分の替わりに喧嘩して、ということである。僕は、数人の友達の替わりに喧嘩する役目を引き受けていたのである。そのまま、津久野小学校に行っておけば、つく喧嘩の数が増えて、僕のことは付近の村に知れ渡っていただろう。

僕は、同級生の母親からは、乱暴者と見られていたのかも知れない。

もりや池で魚を獲っているとき、ふと見ると横の連れが水の中で手を回転させるだけで首から上を出している。何も声を立てずに目を丸くしてそうしている。おぼれているのだ。僕は彼の手を引いて引き上げた。彼は泣いて家に帰っていった。僕は、おぼれている者を助けたので得意だった。

明くる日、彼と道で会うと知らん顔をしている。彼によると、僕と遊んではいけないと母親に怒られたから、知らん顔をしているということだった。

津久野小学校は、そのころ校舎はまだトタンの屋根の平屋だった。そして、校門の左右の空き地に津久野幼稚園があったのだ。幼稚園三年と小学校一年の四年間、僕は上野芝からここに通ったことになる。吹きさらしの田圃の中の道を冬に歩いていて、半ズボンの裾と太股がこすれるところが、赤むけになっていたのを覚えている。

田圃の中の通学路では寄り道自由で冬の田圃の中入れたから、肥えタンゴに落ちる者がいた。冬には肥えタンゴの表面が凍って地面と見分けがつかなくなるからだ。しかし、僕は肥えタンゴに落ちたことはない。

その頃の津久野も上野芝も田舎で、冬でも裸足に靴を履いただけの子供がほとんどだった。上野芝中学は、戦前には何かの工場であった建物を校舎にして戦後始まった学校である。

章三が1期生だった。学区は広く、阪和線の駅で言えば、上野芝と鳳の二つを含んでいた。遠く鳳からも中学生が肩から鞄を垂らしてもりや池の回りの道を歩いて通学してきた。僕は幼稚園に入る前は、彼等と朝によく出会った。彼等も僕を覚えていて、僕を見ると「にこパン、にこパン」と言った。僕が太って何時もにこにこしていたからだった。今は、上野芝と鳳の間に津久野という駅ができ、その周囲に団地も中学校もできている。だから、遠く鳳からもりや池にかけてぞろぞろと通学してくる中学生の列は見られなくなっている。

上野芝が、僕の故郷だった。ここから出たあとの僕は、田舎の乱暴な子が一人町の子に囲まれて味わう経験をすることになる。

百パーセント童心とは到底言えない。したがって、ここで僕の記憶以前のおそらく生まれてくる前から続く幼年期が終わる。

このころの思いでの中に、基本メロディーのように流れているものは何かと考えると、いつも腹が減っていたということかなと思う。別に朝・昼・晩の食事が不十分だったということではない。何か何時も毎日「おやつ」が待ち遠しかった。しかし、何時も親がおっておやつがもらえるわけではない。その時の思いでの味、それは磯田さんのようボンにもらったはったい粉だ。そして、イナゴの香ばしい味だ。獲ってきたイナゴに醤油をつけて火鉢で焼いて食べたイナゴが忘れられない。

なぜ、腹が減っていたのが思い出の基調にあるのだろうか。やはり上野芝が三六〇度遊び場で、僕は毎日その遊び場で遊び回っていたからではないだろうか。つまり、幼年期の僕は恵まれた野原の中で、何時も体を動かしていたのではないだろうか。

後年、中学生になったとき、僕は一人自転車で上野芝を訪れた。上野芝の道がこんなに狭かったのかと懐かしい生まれた家の前の道を眺めた。百済川の土手はコンクリートになり流れもだいぶ移動させられていた。果樹園と田圃のあった月見橋の周囲には住宅が建ち、ただ橋の欄干だけが残っていた。

家原の山は崩されて宅地造成されていた。笹原はなく、白い晒しもなかった。ただ宅地のなかにぽつんと残る家原寺の山門だけが僕の記憶と一致した。もちろん僕たちが秘密の栖(すみか)を木や草で造っていた笹原の斜面にも家が建ち、ただ、溜め池に出っ張ってのびている古い木のカーブに懐かしい記憶が残るだけだった。

幼稚園は小学校の前から移転して無くなっており、小学校の校舎は鉄筋になっていた。