大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

上野芝という丘

右が僕左がすぐ上の兄勇三
右が僕左がすぐ上の兄勇三

小さな子供の頃の記憶は、今これを書いているときにも、またおそらく僕が生を終えるまで消えないものだと思う。

生まれたときのことは、母から聞いた。これからが僕の記憶が始まるのだ。その記憶は、僕が目で見た風景と情景、耳で聞いた物語から成り立っているのだろう。

僕が記憶を引き出すシステムは、この頃つくづく思うのだが、「映像」が中心になっているようだ。それは今もそうなんだ。例えば、あの時の服の色は何色だ、と言葉では僕は記憶できない。その時の映像を瞼に浮かべれば、その映像に色が出ているので、それは何色だと応えることができるだけだ。

だから今僕は、自分の初めての記憶を育んだ背景にある、上野芝という丘の映像を引き出そうと思う。これから述べていく距離感覚は、その時のものである。

僕の家は、丘の上の台地に近いところにあったので、ゆるやかな斜めの処に建っていた。表に地道が通っていて、左に行き右に曲がれば、長い下りの坂道に行き当たる。それを左に降りていけば、月見橋があり渡れば今度は上り坂で上野芝の駅に着く。

月見橋の下は田圃の中に百済川が流れ、田圃の畦道に沿って走る小川で、メダカやドジョウが採れた。川の回りで蛍もとれた。月見橋への下り坂には大きな家の石垣が続き、月見橋からの上り坂のまわりには果樹園があった。家の表の道を右に行けば、少し坂道になり歩き続けると、住宅が途切れ、左の田圃と笹原のその先に深井の村があった。

右に行けば、丘陵が家原の山の森に続いていた。家の裏は、向ヶ丘の一番高い台地で、そこにため池があり「もりや池」といった。ここで僕は、フナや鯉のつり方を覚える。月見橋の下では網の使い方を覚えたのだ。

もりや池の回りの斜面は森だった。僕はこの森から雉が飛び立つのを見た。またこの森の木に登ってドングリを採った。

もりや池の向こう側には、上野芝中学があり、その構内の草原のような運動場を抜けると、右手は一面の笹原でその向こうに家原寺の山がひらけている。家原寺の山には、古い石の地蔵さんがたくさんあり、僕らは地蔵さんの石の屋根の下にはいって遊んだりした。

この中学から家原に向かう道は、僕たち数人が何時も歌を歌いながら歩いた道だ。どういういきさつか忘れたが、この道を夕方、「しんごたん、しんごたん、にしむらのしんごたん」と仲間に囃し立てられながら歩いた情景が残っている。

右が僕左がすぐ上の兄勇三
昭和26年正月 右が僕

家原寺は、行基菩薩の生まれた寺である。この本堂の隅に不気味な「おびんずるさん」がおかれていてた。家原寺の山から向こうを眺めれば、笹の丘陵で白い晒しが斜面一面に並べて干されていた。そこは毛穴村や八田村の領域であった。

は行基菩薩のお母さんの生まれた処であるが、小さな僕には、毛穴や八田に行った記憶はない。ただ、「春過ぎて夏きにけらし白たえの衣干すなり天の香具山」という万葉集の御歌を習ったとき、あの笹山一面に干されていた白い晒しを思い起こしたのであった。

もりや池から上野芝中学と反対の方向に田圃と笹藪の中の道をかなりいけば、阪和線の線路を潜って、津久野村に入り津久野幼稚園と津久野小学校に行ける。ここが僕の通った幼稚園と小学校だ。

この通学路は、田圃と遊び場である原っぱの連続であった。僕は知らないが、五つぐらい年上の近所のたっちゃんが、母に「しんごちゃんが、まだあんな処を歩いている」と、幼稚園の帰りに一時間も二時間もかかる僕のことを感心したように告げたと、母が語ってくれた。

僕は幼稚園に三年いくことになった。母に言わせれば僕が四歳の幼稚園一年目のはじめの日、ついていくつもりでいたのに、近所のおねえさんが数名誘いに来てさっさといってしまったという。

現在は月見橋とこの通学路の周囲は、住宅街になり上野芝と津久野小学校の間に、一つの小学校が建てられているが、僕の頃には原っぱと田圃だけで、住宅はなかったのだ。

さて、このような人生のはじめの風景の中で、最初に何を覚えているのかというと、月見橋から駅の方に上がる坂と、上野芝の回りの笹原と、夕日だ。

僕の三つ上の兄は、小児麻痺であった。その兄の 左手をもって、いちにい、いちにいと支えて歩かせようとする母と兄の後ろ姿が、僕の、母と兄を見た初めての記憶だ。

その時僕は月見橋の端の方から駅に向かう坂を母たちについて行っていた。兄は母に支えられてつんのめるようになりながら足を交互に動かしていた。また、笹原と夕日の記憶に人の気配はないのだが、幼稚園に向かう向ヶ丘の精米所のあるところから、笹の向こうに赤い夕日が見えたのを覚えている。

笹があって同じ高さに夕日があって、僕の歩く細い道があった。今思えば、太古からある地球の優しい風景が、豊芦原の国の風景が、僕の中に幼い頃の記憶として宿ってくれているのだ。

それからもう一つ、忘れがたい光景がある。それは富士山の姿だ。東海道線の電化前だった。

東京に父について出たことがあった。汽車の中で眠っていた僕を父が起こし、列車の最後尾の展望車につれていってくれた。

展望車の後ろのドアを開けて外に出ると、目の前に雪をいただく富士山が紺碧の空を背景にして浮かび上がっていた。僕は息をのんで富士山を眺めた。

それから今まで何度も富士山を眺めたが、この時の富士山を上回る光景はついにない。

富士山を見る度に父と共に見た富士を思い出す。

この富士山を見せてくれた今は亡き父にいつも感謝している。

富士山は、僕にとって霊の山だ。爾霊山だ。