大阪堺市出身!国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

日本のこころを大切にする党 西村眞悟

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平成9年5月、日本・台湾・中国の三国間で領有権問題化している尖閣諸島へ国会議員として初めて上陸視察し、我が国固有の領土であることを内外に訴える。国家の安全保障や国益優先の信念を貫く行動派!

生まれたとき

昭和23年7月7日午前6時頃、僕は生まれた。と母が僕に語ってくれた。その頃、僕の一家は、堺市上野芝向ヶ丘町という丘の上の田舎の住宅街に住んでいた。その丘から、下り坂をおり月見橋をわたってまた坂を上ったところに、国鉄阪和線上野芝駅があった。大阪市の天王寺駅と和歌山市の和歌山駅が両端の終点であったから、阪和線といった。上野芝駅の天王寺よりの次の駅は百舌鳥駅で、和歌山よりの駅は鳳駅だった。

この百舌鳥から上野芝を経て鳳に向かう線路の左右に民家はなく、田圃と畑と御陵と倍塚の森が点在しているだけであった。母は、この阪和線の終点天王寺駅近くの産院に入院して僕を生んだという。

母によると、僕は6月中に生まれるはずであるのに、暑い中おなかの中に居座り、この世に生まれてくるのを遅らせていたという。母は手持ちぶさたに散歩したりして、6月から産院で過ごしていたのだった。そして、7月7日の朝に生まれた僕は、さっそく産婆さんに産湯に入れてもらったが、その時、右手か左手か聞き忘れたが、親指をしゃぶりながら産湯のなかで満足そうだったという。

産婆さんがこの様子を見て、「この子はこうしゃでっせ」と感心した。

「こうしゃ」でっせという、「こうしゃ」とは何か今となってははっきりしないが、母は、僕の小さいときに、たびたび、僕の生まれた時のことを言いながら、産婆さんが「この子は、こうしゃでっせ」と感心したと語ってくれた。その時、母はその産婆さんの発音をまねて繰り返した。ともかく、その言葉で生んだ母親が安心し、我が子は人並み以上に元気だと納得した情景がそのまま伝わってくるので、僕はいつも、「こうしゃ」て何や、と聞く必要を感じずに終わったのだった。母も、その時産婆さんに「こうしゃ」の意味は聞いていなかったのだろう。

このようにして天王寺の産院で産まれた僕は、何時上野芝に帰ったのかもちろん知らない。たぶん、記憶にある阪和線の茶色の木造の電車で母に抱かれながら上野芝駅に着いたのだろう。母秀子は、その時39歳、父栄一は45歳。僕はこの両親の末っ子として生まれた。

上野芝の家には、3歳上の兄勇三、かなり年の離れた姉和子、その上の長兄重剛夫婦、そして父の亡くなった叔父の子である章三がいた。勇三と和子の中間に力(つとむ)がいたが、戦争中亡くなったと聞いている。

勇三と僕が、秀子の産んだ子であり、重剛、和子、力は父の先妻の子である。章三は、戦前戦後の混乱期に母子家庭となっていた生家から栄一のもとに来た。共に育つのが兄弟だと広く解釈すれば、僕の兄弟は亡くなった力を含め、上に5人いる。